敗戦から集団的自衛権行使容認まで
- 2014年7月7日
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日本は広島・長崎への米国からの原爆攻撃を受け、昭和20年8月15日はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏したのでした。この結果、日本は連合国占領軍(事実上、米国が単独)の占領下におかれたのでした。
ポツダム宣言を基調になされた占領政策は、非軍事化、民主化を基調にしたものでした。その民主化政策の頂点が新憲法制定でした。現在の日本の憲法は1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されたのでした。
主権在民、基本的人権の尊重、平和主義を柱とする日本国憲法は諸外国に例をみないほど徹底したものでした。こうした民主化政策が進むなかにあって、米国はソ連や中華人民共和国などの共産主義封じ込め作戦をつよめ、日本を共産主義の防壁にするべき政策を一方で進めた。とりわけ、1950年6月の朝鮮戦争勃発が契機となって、7月のマッカーサー書簡となり、日本に対して警察予備隊の創設が命じられました。これは、朝鮮戦争に在日米軍が介入することによって、日本国内の軍事的空白を補う、つまり「間接侵略」に対応する手段として、自衛隊の前身となる警察予備隊が創設されたのでした。
1952年4月26日にはサンフランシスコ講和条約が締結され、連合国占領軍は撤退したものの、同時にセットで日米安保条約が発効し、こんどは日本が米国に軍事基地を提供し、日本は駐留する米国軍に守られるという安全保障体制がスタートしたのでした。この日米安保条約には、その前文に米国が日本の再軍備を期待するという文言が含まれ、明らかに憲法前文の平和主義と第9条の戦争放棄規定とは矛盾するものでした。
日米安保条約下にあって、警察予備隊は1952年10月保安隊に改組され、1953年10月には吉田茂首相の特使である池田勇人とロバートソン米国務次官補会談により、「日本を侵略の危険より護り、かつ日本防衛についての米国側の負担を軽減するため日本の自衛力を強化する必要があることについて意見の一致をみた」とする共同声明が発せられ、自衛隊が発足(1954年7月)したのでした。発足当時は、13万人の陸上自衛隊、5万トンの海上自衛隊、150機の航空自衛隊でした。
自衛隊の発足にともない、新たな憲法への対応を求められた自由党は、1953年11月に憲法改正調査会を発足させ、野党の改進党も1953年2月に自衛軍創設を決めました。こうして1954年憲法改正を掲げた鳩山内閣が成立し、1955年11月保守合同により改憲を党の綱領とする自民党が誕生し、1955年、1956年の衆参両院議員選挙で鳩山内閣は改憲に必要な3分の2の議席獲得をめざしたものの、左右両社会党、総評を中心とする改憲阻止勢力の闘いによって改憲に必要な議席の確保は成功しなかったのでした。
このため、これ以降は、解釈改憲へと変更(個別的自衛権に限定→集団的自衛権行使容認)転換しつつ、「自衛隊合意論」から防衛庁を防衛省へ昇格させ、自主防衛力強化へとすすみ、今日の集団的自衛権行使容認まで解釈改憲を進めてきたのです。
こうした背景にあって、55年体制以降、2012年の安倍政権発足までの日本は憲法を擁護しようとする政党や国民と、米国の期待に応えるべく、再軍備をすすめようとする政府・政権与党との間で、憲法改正をめぐるせめぎ合いがつづいてきたのでした。
国民に信を問うことなく安倍内閣は、2014年7月1日、集団的自衛権行使容認の閣議決定を行ってしましました。
戦後生まれの団塊世代の私は、この64年間、戦争も武力行使の現場も経験することなく、健康で文化的で、しかも比較的に幸せな人生を送ってきました。それだけに、平和のありがたみもそんなに自覚することなく、配偶者と離婚することもなく、4人の子にも恵まれ、小学校を頭に3人の孫にも囲まれて生きてきました。それだけに、日本が他国に侵略されたり、自分はもとより、家族も戦争にまきこまれることなど想像だにできませんでした。それだけでなく、中国の学生が軍事教練を強制され、韓国では徴兵制が敷かれていることに対しても、日本の現実とはかけ離れた別世界のように感じていました。


























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