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笹田隆志. ささだたかし.

Address: 038-0024 青森市浪館前田2丁目14番2号

E-mail: sasada33@gmail.com    sasada33@hotmail.co.jp    ssdtks@cocoa.ocn.ne.jp

Phone: 090-3469-2533

プロフィール

 

 

1949年;7月21日、青森市浜町生まれ。

1953年;大谷幼稚園入園

1956年;青森市立長島小学校入学

1962年;青森市立甲田中学校入学

1965年;青森県立青森高校入学

1968年;秋田大学鉱山学部入学

1972年;東北大学大学院修士課程入学

1974年;東北大学大学院博士課程入学

1975年;東北大学大学院博士課程中退

 

1976年;自治労青森県本部入職

2009年;自治労県本部退職

2009年;青森市役所入職(市長公室副参事)

2010年;青森市役所退職
2010年;中国・東北師範大学人文学院講師

 

2011年;原子力防災研究所設立(代表)

2013年;NPO「ういむい未来の里」理事

2014年;NPO「グリーンエネルギー青森」理事

2,014年;青森市議会議員選挙に立候補 1508票で落選

2015年;NPO「グリーンエネルギー青森」理事

2016年;「グリーンエネルギー青森」事務局理事

2017年;社会民主党青森県連合副幹事長、幹事長代行

笹田たかしの68年
 

● 1949年7月21日青森市浜町に生まれる。母方の家は津軽藩御用達の提灯屋だった。長島の借家で育ち、1953年から3年保育で大谷幼稚園へ通う。

 

● 1956年長島小学校へ進み、合浦公園の市営球場で立教大学の長島選手らを見て感動し、野球部に入ろうとするも選抜テストで落ちて、選手にはなれなかった。3年から6年まで7組のまま1962年卒業したが、このときのクラスメイト6人と今でも2カ月に一度、「6年7組の会」を古川の居酒屋侍で続けている。6年7組のクラスメイトに武藤(同人誌「北狄」元編集長)君がいて、彼の影響を受けて読書に目覚め、同級生の工藤(毎日新聞青森販売店主)君とともに三人で県立図書館へよく通う。

 

● 1962年青森市立甲田中学校へ入学する。背が高くなりたいと、バスケット部に入るもレギュラーにはなれなかったけれど、新人戦と練習試合には選手として出場できたのが、思い出として残っている。2年の秋、11組の代表として生徒会長に立候補するも、古山(元アウガ社長)君に大敗する。爾来、自治労県本部の役員選挙以外は立候補歴はない。青森市立甲田中学校を1965年、3回生として卒業した。同期の仲間(山中(リピート社長)・武田(棟方志功館館長補佐)・宮川(青森県保健所長)君等がいる)とともに「三甲会」をつくり、春夏秋冬に同期の真知子さんが女将の本町「天ぷら堤」に集まって旧交を温めている。

 

● 中学2年の夏休みに三内稲元へ転居し、三内から青森県立青森高校(1965年~1968年、青高第18回生)へ雨の日も雪の日も、三年間一途に自転車で通う。高校時代は水泳部で1500m自由形の選手として高校総体へ出場したがブービーに終わる。ランキングは13位(14人中)。高校の同級生には佐藤健一(元青森市副市長)、佐々木英明(詩人・三沢市寺山修司記念館館長)君らがいる。18回生の同期会の幹事(代表;元東奥日報記者藤川幸治君・事務局長;会計事務所代表柳谷順三君)が集まるのは、長島の「綺羅」(同期生の森谷君の妻真知子さんが経営)。

 

● 1968年東北大学への受験に失敗したため、国立二期校だった秋田大学鉱山学部冶金学科へ入学(1968年)し、手形学園町の鉱山学部北光寮で寮生活をおくる。授業料月千円、寮費三食付きで6千円、育英会奨学金月8千円、日通奨学金月4千円で、帰省時以外、親からの仕送りはなしだった。大学時代に魯迅の翻訳で知られる竹内好の講演会へ行き、帰り路で偶然、会場を出た竹内好に傘を差し出したことが縁で彼の知遇を得る。竹内好に上京を請われたが、退学して上京するのを意気地がなくて思いとどまる。冶金学科の非鉄冶金研究室時代に「あさま山荘」事件や三島由紀夫割腹自殺事件を目の当りにし衝撃を受ける。

 

● 入学当時、大学と寮は学生運動の嵐のなかにあり、1年の夏、秋大全共闘による全学スト封鎖を経験し、70年安保闘争や東大安田講堂事件を肌で感じながらも、卒業後も勉強を続けようと思い立ち、大学院進学のため4年間ドイツ語を履修する。一般教養のドイツ語教師だった大澤先生(後に信州大学教授)に可愛がられ、先生の研究室で医学部学生らとドイツ語研究会をつくり、トマスマンに傾倒する。このときの医学部の1学年下には、芥川賞作家の南木佳士(霜田哲夫)がいた。秋田大学鉱山学部を1972年春に卒業。大学院進学のため夏休みも帰省せず寮に籠って勉強していたころ、真夜中にベッドで寝ていたとき、千秋公園にあった動物園のライオンの咆哮に起こされたことがあった。翌年春、そのライオンは檻からでて射殺される。その事件をもとに処女作となる『夜のライオン』(北狄301号、1999年1月5日東奥日報新春短編小説、青森ペンクラブ「草々の風」所収)を書いた。

 

● 1972年に東北大学大学院工学研究科修士課程(金属工学専攻)へ入学し、片平町の選鉱精錬研究所の大谷教授の製銑研究室から青葉山の工学部へと通う。修士課程(1972年~1974年)を修了し(工学修士)、博士課程(1974年~1975年)へと進んだものの家庭の事情により1年で中退し、高校時代から付き合っていた妻と結婚して1975年故郷へ戻る。青森予備校講師として数学、理科を教える。

 

● 1976年4月、自治労青森県本部の書記(職員)となり、2009年まで33年間勤務。1984年7月、電気事業連合会(電事連)が六ヶ所村へ核燃サイクル施設の立地要請をし、わずか9カ月弱の期間で十分な検証も行わず、県民の意思を問うこともなく、1985年4月9日県知事が県議会全員協議会で核燃サイクルの受け入れを表明したことから、日本の原発推進政策・核燃料サイクル政策に反対し続けることライフワークとすることを自らに誓う。1986年4月のチェルノブイリ原発事故を経て、同年5月『下北半島核景色』を自治体運動政策研究所から自費出版する。

 

● 自治労県本部では、賃金調査、教宣、共済、反原発・反核燃サイクル、原子力防災、書記次長などの職務につく。特に、賃金担当部長として、旧大畑町職(現むつ市)の学校給食調理員直営化闘争(故中谷博委員長・三浦賢伍書記長時代)、旧浪岡町職(現青森市)の学校給食調理員の直営・賃金改善闘争(中谷委員長・故田中良三書記長時代)、旧十和田湖町職(現十和田市)の職員賃金改善闘争(中谷委員長・故桜田一俊書記長時代)などを成功させる。また、書記次長として田舎館村職の保育所分限免職処分撤回闘争(桜田委員長・古村一雄書記長時代)をはじめ、人事委員会に対して数多くの組合員の不当処分不服申立闘争、昇格差別撤回措置要求闘争などを石岡隆司弁護士を顧問に法廷・人事委員会闘争をたたかう。また、自治労本部の脱原発ネットワークのアドバイザーとして対政府交渉や原子力防災指針づくりのほか、「原子力防災ハンドブック」などの執筆・編集も担当する。

 

● 1991年2月の県知事選挙に核燃サイクル白紙撤回を掲げ立候補した金澤茂弁護士の秘書として自治労県本部から派遣され、鹿内博市議会議員(現青森市長)、石岡隆司弁護士、故久保晴一農協青年部長(元倉石村村長)らとともに、1990年10月から選挙事務所に専従した。知事選挙に敗れ、自治労県本部に戻るも、2009年に退職するまで、原発や核燃サイクル施設の安全性の追求、情報公開、原子力防災をライフワークとして日常業務の傍ら、資料収集、調査研究を続ける。

 

● 1979年3月28日のスリーマイル島原発事故、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故を受け、次は日本で大きな原発事故が起きる可能性を指摘し、反(脱)核燃サイクル・反(脱)原発にむけた原子力政策の変更とその間の原子力防災の必要性と対策を国と立地・関係自治体へ訴えてきた。中国から帰国後まもなく発生した2011年の3.11福島第1原発事故はそうした危惧がまさに現実となったものであった。

 

● 家庭では4人(3男1女)の子の父として、子どもたちを「ヤクルト」スイミングスクール、リトルリーグ(青森ジャイアンツ)・リトルシニアリーグ(中学生硬式野球)などのスポーツクラブへ通わせる。長男と次男は青森高校の硬式野球部で甲子園出場をめざした。子どもたちの授業参観に顔をだしているうちにPTAにもかかわるようになり、浪館小(5期)・西中(2期)・青森高校(1期)のPTA会長も経験する。この間、青森市PTA連合会の事務局長、副会長として青森市社会教育委員、通学区検討委員会委員、旅館建築審議会委員などを経験したほか、県PTA安全互助会専務も務めた。

 

● 1997年同人誌「北狄」に参加して小説を書き始め(処女作『夜のライオン』を301号へ発表)、故服部進元代表の指導薫陶を得て2004年(~10年)編集長になる。これまで、「最後の孝行」で青森県文芸協会第22回文芸新人賞(2002年)、「犬捕り万蔵」で第20回自治労文学賞(2006年)を受賞。「棘栗蟹」を発表した「北狄310号」(2000年3月発行)が全国の文芸同人誌のなかから第1回富士正晴全国同人雑誌賞の特別賞を受賞する。

 

j● 2009年、自治労県本部定年まで1年を残し59歳で退職し、青森市職員に採用される。市長公室市民政策課副参事として公務員も経験する。市民政策課では、市民100人委員会、旧浪岡町との合併検証委員会の事務局を主に担当する。

 

● 2010年市役所退職後、中国吉林省長春市の東北師範大学人文学院で日本語を5カ月弱教える。

 

● 帰国後すぐに2011年3月11日の東日本大震災を経験し、福島第1原発1号炉から4号炉までの重大事故の惨状を目の当りにし、被災地の住民が二度と故郷に帰れないかもしれないという悲惨な現実にショックを受け、六ヶ所村核燃サイクル施設や東通原発が立地する青森県には、施設がなくなるまでの間、更なる安全対策と防災対策が必要と考え、原子力防災研究所を設立する。
 

● 4人の子は皆それぞれ独立し、長男はNY、長女は結婚し東京、次男は浦安に住む。公務員になった三男は結婚を機に家から離れた。そんなわけで、いまは浪館前田の家で妻と二人、自由気ままに貧乏生活を送っている。NYに男の孫二人、浦安に小1になる男の孫がひとり。3人の孫の未来に希望あれと祈っている。

 

● 現在は、放射性廃棄物問題や脱原発・原子力防災、ならびに環境・エネルギー問題に関する資料を収集し論文を書く傍ら、原子力災害や地震や津波などの自然災害から市民の安全・安心に資するために市民サイドからの研究提言を続ける一方、特定非営利団体(NPO法人)で再生可能エネルギーや自然エネルギーの日常生活への利用の必要性を訴えている。(2011年5月~原子力防災研究所代表、2013年11月~NPO「ういむい未来の里CSO」常務理事、2013年4月~NPO「地域福祉研究室pipi」副理事長、2014年3月~NPO「グリーンエネルギー青森」理事)

 

● 文学関係では、同人誌「北狄」と「文ノ楽」に所属し、2013年3月で廃刊となった文団「遙」にも結成時から参加していた。そして、現在は青森ペンクラブの理事(2014年4月から理事・監事)。

 

● 著書に『下北半島核景色』(1986年)、『浪岡町長四十六日の反乱』(2009年)があり、共著に『原子力防災ハンドブック』(1998年)、『日本資本主義の現状と課題』(2001年)、『遙かなるチェルノブイリ』(2003年)、『三市ペンクラブ短編集・草々の風』(2007年)、『北狄作品集(三)、(四)、(五)』(2004年、2006年、2008年)、『コミュニティワーク実践研究紀要第6号』(2014年)他がある。同人誌「北狄」に301号(1997年12月)から2014年3月の366号(最新作『長春物語』120枚)まで65作品、文団「遙」に第1号(2002年5月)から第60号(2013年3月廃刊)まで77作の創作(小説)、記録、論説、エッセー等を発表する。このほか、同人誌「文ノ楽」にも2007年№8から参加し、2013年の№14まで7作品を発表。他にも、青森ペンクラブの会誌「北の邊」にもエッセー、小説などを発表している。

 

● 東奥日報紙に新春短編小説として1999年「夜のライオン」、2008年「カバのクリスマス」を発表、掲載される。

 

仕事(自治労時代)について

1976 - 2009

 

 1976年4月、自治労青森県本部の書記(職員)となり、2009年まで33年間勤務。

 1984年7月、電気事業連合会(電事連)が六ヶ所村へ核燃サイクル施設の立地要請をし、わずか9カ月弱の期間で十分な検証も行わず、県民の意思を問うこともなく、1985年4月9日県知事が県議会全員協議会で核燃サイクルの受け入れを表明したことから、ライフワークとして日本の原発推進政策・核燃料サイクル政策に反対し続けることを誓う。1986年4月のチェルノブイリ原発事故を経て、同年5月『下北半島核景色』を自治体運動政策研究所から自費出版する。

 

 自治労県本部では賃金調査、教宣、共済、反原発・反核燃サイクル、原子力防災、書記次長などの職務についた。特に、賃金担当部長として、旧大畑町職(現むつ市)の学校給食調理員直営化闘争(故中谷博委員長・三浦賢伍書記長時代)、旧浪岡町職(現青森市)の学校給食調理員の直営・賃金改善闘争(中谷委員長・故田中良三書記長時代)、旧十和田湖町職(現十和田市)の職員賃金改善闘争(中谷委員長・故桜田一俊書記長時代)などを成功させる。また、書記次長として田舎館村職の保育所分限免職処分撤回闘争(桜田委員長・古村一雄書記長時代)をはじめ、人事委員会に対して数多くの組合員の不当処分不服申立闘争、昇格差別撤回措置要求闘争などを石岡隆司弁護士を顧問に法廷・人事委員会闘争をたたかう。また、自治労本部の脱原発ネットワークのアドバイザーとして対政府交渉や原子力防災指針づくりのほか、「原子力防災ハンドブック」などの執筆・編集も担当する。

 

 1991年2月の県知事選挙に核燃サイクル白紙撤回を掲げ立候補した金澤茂弁護士の秘書として自治労県本部から1990年10月に派遣され、鹿内博市議会議員(現青森市長)、石岡隆司弁護士、故久保晴一農協青年部長(元倉石村村長)らとともに、1990年10月から選挙事務所に専従した。知事選挙に敗れ、自治労県本部に戻るも、2009年に退職するまで、原発や核燃サイクル施設の安全性の追求、情報公開、原子力防災をライフワークとして日常業務の傍ら、資料収集、調査研究を続ける。

 

 1979年3月28日のスリーマイル島原発事故、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故を受け、次は日本で大きな原発事故が起きる可能性を指摘し、反(脱)核燃サイクル・反(脱)原発にむけた原子力政策の変更とその間の原子力防災の必要性と対策を国と立地・関係自治体へ訴えてきた。中国から帰国後まもなく発生した2011年の3.11福島第1原発事故はそうした危惧がまさに現実となったものであった。

 

市役所時代

​2009 - 2010

 

 2009年4月、かつて1991年の県知事選挙で一緒に活動した鹿内博県議会議員が青森市長に初当選。鹿内市長に請われ、自治労県本部定年まで1年を残し59歳で退職し、同年6月に青森市職員に採用される。青森市役所では、新設された市長公室市民政策課副参事として市長マニフェストの進行管理、市民100人委員会、旧浪岡町との合併検証を主に担当する。2010年7月末に退職するまで、1年2カ月という短い期間であったが地方公務員も経験する。

 市役所へは毎朝7時半前に到着し、事務室の鍵をあけ、新聞を読むことから1日の仕事を始めた。市長マニフェストの推進では、企画・財政課などと実際に事業をすすめる担当課との連携に腐心し、市民100人委員会では各部から推薦された委員への委嘱や公募委員の選定などにも汗をかき、毎月行われた100人委員会の運営についてもかかわった。また、旧浪岡町との合併検証委員会では、委嘱・選任された委員の検証意見のとりまとめや、合併に至る経緯の検証に多くの時間を費やした。
 市長マニフェスト作成にかかわった自治労時代の2008年10月から市役所で勤務した2010年7月までの約2年の経験は、わたしの64年の人生のなかでも大きな位置を占めるものとなった。

 

中国長春での5カ月と東日本大震災・福島原発事故

​2010 - 2014

 

 2010年に市役所を退職し、中国吉林省長春市にある東北師範大学人文学院で日本語講師として約5カ月弱中国人の学生に日本語の基礎(2年生34人)と作文(3年生103人)を教える。​それに4年生8人を卒論指導で受け持つ。

 2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災を家で体験する。震度4の激しい揺れに恐怖を感じつつ、ただちに停電(翌12日午後2時まで)となるも、ラジオで津波の惨劇を知る。そして、福島第1原発の1号機から4号機までの水素爆発・炉心溶融事故をまのあたりにし、あらためて脱原発・脱核燃サイクルを確信する。
 2011年5月に古川に事務所を借り、原子力防災研究所を設立し、現在に至る。


 
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2010 - present

2010 - present

教育
 

秋田大学鉱山学部冶金学科

1968 -1972

 1968年東北大学への受験に失敗したため、国立二期校だった秋田大学鉱山学部冶金学科へ入学(1968年)し、手形学園町の鉱山学部北光寮で寮生活をおくる。授業料月千円、寮費三食付きで6千円、育英会奨学金月8千円、日通奨学金月4千円で、帰省時以外、親からの仕送りはなしだった。大学時代に魯迅の翻訳で知られる竹内好の講演会へ行き、帰り路で偶然、会場を出た竹内好に傘を差し出したことが縁で彼の知遇を得る。竹内好に上京を請われたが、退学して上京するのを意気地がなくて思いとどまる。冶金学科の非鉄冶金研究室時代に「あさま山荘」事件や三島由紀夫割腹自殺事件を目の当りにし衝撃を受ける。

 

 入学当時、大学と寮は学生運動の嵐のなかにあり、1年の夏、秋大全共闘による全学スト封鎖を経験し、70年安保闘争や東大安田講堂事件を肌で感じながらも、卒業後も勉強を続けようと思い立ち、大学院進学のため4年間ドイツ語を履修する。一般教養のドイツ語教師だった大澤元先生(後に信州大学教授)に可愛がられ、先生の研究室で医学部学生らとドイツ語研究会をつくり、トマスマンに傾倒する。このときの医学部の1学年下には、芥川賞作家の南木佳士(霜田哲夫)がいた。秋田大学鉱山学部を1972年春に卒業。大学院進学のため夏休みも帰省せず寮に籠って勉強していて、夜中に寮のベッドで寝ていたとき、千秋公園にあった動物園のライオンの咆哮で起こされ、目が覚めたことがあった。翌年春、そのライオンは檻からでて射殺される。その事件をもとに処女作となる『夜のライオン』(北狄301号、1999年1月5日東奥日報新春短編小説、青森ペンクラブ「草々の風」所収)を書いた。

 

東北大学・大学院工学研究科金属工学専攻

​1972 - 1975

 

​ 1972年に東北大学大学院工学研究科修士課程(金属工学専攻)へ入学し、片平町の選鉱精錬研究所の大谷正康教授の製銑研究室から青葉山の工学部へと通う。修士課程(1972年~1974年)を修了し(工学修士)、博士課程(1974年~1975年)へと進んだものの家庭の事情(結婚)により1年で中退。


 

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